2012年9月24日月曜日

炊き出し懇親会@女川町 高白浜仮設住宅

9月18日、女川町の高白浜にある仮設住宅にお邪魔して炊き出し懇親会を開催させていただきました。
当日は、晴れてはいたものの日本海側にある台風の影響で風が強いとの情報が。
懇親会は屋外にテントを張って開催するので、風と雨にはモロ影響を受けるのです。
どうなることかと思いながら朝5:30に埼玉を出発し、いつも通り菅生SAで朝食をとって会場入り。
心配していた風ですが、高白浜の仮設住宅に到着するとほとんど風はなく一安心。
海は近いが山に囲まれているような場所なので、上空の雲の早さがウソのような穏やかさでした。




到着後は、いつもお世話になっている地元のボランティア団体「リアルアイ」の高橋さんにもお手伝いいただき、テントを張って、テーブル作って、野菜を切って、かまどを組み立てなどなど・・・
1年ちょっとの間、毎月やっていると我々スタッフの手際も早くなり14:00くらいには準備終了。

今回ご用意したのは、焼きソバ、フランクフルト、タコヤキ、カレーライス、肉と魚介のBBQ、カキ氷、ジュース、お酒、生ビール、カラオケ。
食材は出来る限り被災地で購入=被災地でお金を使う、という私たちのコンセプトのもとに、今回も女川町のコンテナ村さんや岡清さん、石巻市のやまだ肉店さんなどで食材を購入させていただきました。

15:30になったら仮設の区長さんにお声掛けし、住民の皆さんに懇親会開始の合図をだしていただきいよいよスタートです。
50名ほどの方が住まわれている、そんなに大きくない仮設住宅なので少しずつ住民の方々も出てきていただき、終始和やかな雰囲気での懇親会となりました。

来月は16日(場所は未定)に開催させていただく予定です。

2012年9月2日日曜日

お手紙

昨年4月から続けさせていただいている復興支援。被災地を見るたび、地元の方々と話すたび、支援をしている私たちが逆に勇気と気力をもらうことが多々あります。
復興支援を続けるなかで、被災地の方よりお手紙をいただくこともあり、それを読むたびに継続支援の必要性も感じています。

そんな中、昨年末に被災地支援のサイトを通じて加湿器を10台寄付させていただいた、石巻市立大谷地小学校の校長先生よりいただいたお手紙をご紹介します。

たった9ヶ月前にいただいたお手紙です。
 



平塚宏一(東北復興を支える会代表)様

師走に入り、石巻では夜になると氷点下の日が増え、雪はあまり降らないのですが寒さが一段と厳しくなってきました。先日はわざわざ本校までりっぱな加湿器をお届けいただき、心より感謝申し上げます。実は、あの日以降本校では、急にインフルエンザの流行が始まり、勢いは止まらず順々に学年閉鎖に追い込まれているのですが、いただいた加湿器はフル回転で使わせていただいております。本当にありがとうございました。
私のことになりますが、3.11の時には、宮城県の七ヶ浜町立松ヶ浜小学校の校長をしておりました。学校は海のすぐ近くでしたが高台にあったため、津波の被害はありませんでしたが、校舎自体は、あちこちに大きなひびが入った状態でした。津波で浜辺にあった家々が跡形もなくなり、学校の体育館は避難所となり、雪が降る寒さとライフラインが全くなくなった状態で、1000人以上の地域の人たちが学校に避難してきました。入り切れず、校庭も車を入れて寝泊まりする人で満杯になりました。そのような中、私も避難してきた方々と一緒に寝泊まりし、不安を抱えたまま励ましに全力を尽くしました。避難してきた方の気持ちを少しは元気づけることができたと思っています。あのような状態になると、今日がいつなのか、3.11から何日が経ったのかが全く分からなくなり、カレンダーがとても大きな役目を果たしたことが思い出されます。また、トイレの問題が大変でした。千人以上人が水が止まった少ない数の学校のトイレを使うのですから、ー回ごとにバケツの水で流さなければなりません。そのため、プールからひっきりなしに水汲みをしなければなりませんでした。避難者皆の協力がなければできませんでした。ー週間ぐらいして、北陸電力の電源車が金沢から来て、体育館と校舎に電気がつき、校内放送が使えるようになったときほどうれしかったことはありませんでした。配給の食料を配るのに、始めは大変苦労しました。毎日、何が来るか、どれくらいの数が来るか決まっておらず、来てから対応を考える状態が続きました。が、徐々に配り方を工夫し、時間がかかっても文句を言わず、指示に従って待ってくれた方々の協力に感謝する毎日でした。食料の配布は、朝と夜だけ。後はお菓子を食べたり分け合ったりと、体育館に避難していると、不思議にも皆同じ状態のせいなのか、どちらかというと連帯感と安心感がありました。
4月1日に、現在の石巻市立大谷地小学校に異動になりました。本校は、津波の被害は全くない内陸の農村地帯ですが、地震のため体育館が壊れ、使えなくなりました。また、地盤低下がひどい状態です。
最近は、福島原発の話題は毎日マスコミで取り上げられていますが、震災の被災地の方は、徐々に報道も減り、世間でも意識が薄くなってきているように感じています。しかし、現状はほとんど変わっていないというのが、現地に住んでいる私たちの実感です。特に被災が大きかった石巻市では、約4000人の方が亡くなり、市の100年分のがれきが出て、がれきの片づけがまだ30前後ということで、復旧が進んでいません。また、そのがれきを受け入れてくれる県や市があまりにもすくないことを耳にすると、同じ日本人なのに、どうして・・・と、悲しくなります。石巻のすぐそばには、女川原発がありその、女川の町も壊滅しました。津波というものは町を根こそぎ失くしてしまうだけでなく再びそこに戻れなくしてしまい、きれいさっぱり破壊してしまいます。石巻市内の学校も、被災した学校があまりにも多く元に戻れず、他校の校庭に仮設校舎を建てて、朝夕、たくさんの通学バスを走らせています。
被災された方は仮設住宅に入りましたが仕事もなく、土地もなく、財産もなく、希望が持てない状態がいつまで続くことでしようか。また、冬に入り、仮設住宅では断熱材を入れる工事が急いで行われていますが、12月いっぱいかかるそうです。
誰も経験したことのない大震災を、私たちは経験しました。その時は無我夢中で、その日その日をどう生きるかしかありませんでした。多くの人が一瞬にして亡くなり、家が流され、思い出の品も何もかも無くなりました。これが津波の恐ろしさです。学校も例年より2週間遅い421日から何とか始めました。そのため、休みも短くなり、3学期のスタトは15日です。子供たちは、ずっと不安な中で過ごして、新年度の始業式に顔を合わせました。それでも、子供たちは友達と顔を合わせることにより日が経つにつれ明るさを取り戻し、一緒に遊んだり勉強したりする喜びのなか、元気に学校生活を過ごしています。この間、多の方々から様々な支援や励ましをたくさんいただきました。全国の皆様が、被災地のことを心から心配してくださることを実感する日々でした。
大谷地小学校の近くには、多くの児童が亡くなったことで有名になった大川小学校が近くの小学校に間借りしています。しかも、津波のため住むところがなく、みんなバラバラになってしまい、海辺の町が元のように復旧できるかどうかもいまだ不明です。また、本校の近くに、大川地区の方々の仮設住宅ができ、9月より住み始めました。子供たちは大川の方々との息の長い交流をしようと、動き始めました。18日の新聞に載りましたので、一緒に送らせていただきます。
私自身、今回の震災を通して、多くの方の励ましとつながりが希望となり、学校運営のエネルギーになっています。この経験を生かし、本当に困っているときに、行動できる自分でありたいと思いました。(ただ、残念なことに気力はあっても、体力がないのです)
また、現地に足を運ぶだけでも、大きな意味があることを教えられました。また、震災後の時間の経過によって、必要な支援が変わってくること、長期の支援の大切さ声をかけ続けられることの心強さなどを学ばせていただきました。私たちが元気になり復興することが、皆様への御礼になると思っています。私たちの住む石巻は大きな被害を受けました。復興までは10年ぐらいはかかるでしょう。しかし、皆さんの励ましをエネルギーに変え希望を持ってきっと立ち直ります。
結びに、平塚様の活躍とご健勝、トラストホームの益々のご発展を祈念し、御礼とさせていただきます。

平成23年1220 石巻市立大谷地小学校長 杉山昭夫